講演会に出る度に思う、名前だけの産官学と死に体の「学」から感じる危機感

研究
aaa

「知」という言葉

最近「知」という言葉をよく見かけるようになった。大学を「知の拠点」と言ってみたり、「知を高める」というような内容の本や記事が大量に溢れているのを肌感覚で感じる。数年前は「AI」「ベンチャー」そして「知」という言葉を新聞で見かけることは殆どなかったが、最近では新聞を開けば必ずと言っていいほど目にする。

記事を読んでいて思うのは、それらのものを「今の社会が抱える諸々の問題を解決してくれる便利なマジックワード」として扱っているという気がしてならないということだ。少子高齢化や働き手の不足、産業では様々な分野で中国企業の躍進に影を潜める日本企業と浮かない話が多い。これらの大半は今に始まったことではなく10年以上前から確実に起こるとわかっていた。GDPなら2007年くらいには抜かれるのは目に見えていたし、少子高齢化なら30年以上前からわかっていた。避けられなかった問題ではなく、対策を取らなかった怠惰でしかない。

 

名前だけの「産官学」

実害が現れてから慌てて対応しているという印象しか持てない。しかも、その対応方法がAIやベンチャー、そして産官学連携と言った見かけ上は非常に真っ当そうだが、実状はそれらのものに問題の解決を全て押し付けているだけにすぎないので良い印象はない。

仕事の関係で講演会に参加することが多いのだが、必ずといっていいほど大学の先生が出てきて「研究を社会に活かす」としきりに言う基調講演を目にする。大学の先生は社会のことなど気にせずに研究すべきなのに、それを大学の先生にやらせているとは何事だろうか。

社会のことを気にしなくてはいけないのは産業と官僚だ。官僚が方針を考えて、それを産業が実行する。産業が扱うのは「今」と数年後の「少し先の未来」になる。何十年後に必要になるものを扱うのはビジネスとしてあまり有効では無い。その何十年後かを扱うのが大学の役割なのだ。だから大学は「今」は役に立たない。当たり前だろう。扱う時間が違うのだから。

今のやり方は来年の籾殻を食って今を凌いでいるだけでしかない。未来に対する投資を「選択と集中」という名で捨てている。その選択が外れた場合はどうするのだろうか。これ以上大学を消耗させると近い将来これまで以上に酷い有様になると思う。実際、文科省の資料を見ると論文数はここ数年でさらに減っている。

 

無知の「知」

かつて偉大なる数学者の岡潔が「数学が何の役に立つか」と言われて「野に咲くスミレに理由を訊ねてもそれはスミレの預かり知らぬことだ」と答えた。役に立つ立たないはその時の時代と社会が決めることだ。当然のことだろう、その時によって社会が抱える問題は異なるのだから。その解決策を全て学問に押し付けるのは筋違いだ。今本当に必要な「知」とは、無知の「知」ではないだろうか。