私は流行ものには乗らないし、長いものには巻かれない人間である。この映画がすごいとテレビが言おうが、ニュースで取り上げられようが意地でも観ようとしない。しかし、最近周りの方々が「君の名は。」凄いとしか言わないので、とうとう見に行った。友人知人からはやっと行ったかと言われ、一人で行った事をさらに笑われた。
3年前に私も飛騨に行った。日本酒と飛騨牛が素晴らしい

3年前に私も飛騨に行った。日本酒と飛騨牛が素晴らしい

新海誠の作品は、秒速5センチメートルから背景の描写が綺麗だったので好きだった。が、如何せん「そんな男女仲を描かんでも」というような内容だったので、今回の「君の名は。」でも微妙な男女仲を描くのだろうと思っていた。しかし、映画が終わる頃には、その考えは完全に粉々に砕かれ、私はただただ涙を流していた。泣いても大丈夫なようにと、わざわざ平日の16時に観に行ったのが功を奏した。
 写真を見返していたら、奥寺先輩が食べていたものを私も食べていたらしい

写真を見返していたら、奥寺先輩が食べていたものを私も食べていたらしい

そして、先週2回目を観たのだ。2回目となるとストーリーは大体わかっているので、演出やうろ覚えな箇所を確認しながら観た。私はずっと瀧君が、何故高校生なのに15万するアーロンチェアを持っているか不思議だったのだが、見直してみると持っていたのは大学生になってからであった。そんな細かい箇所を観ていたのだが、2回目もまた泣いてしまった。とくに、後半から終わりまでの流れが印象に残っている。
高山ラーメンも勿論食べた。太縮れ麺なのが特徴

高山ラーメンも勿論食べた。太縮れ麺なのが特徴

瀧が口噛み酒を飲んだ、まさにその時、三葉の半分が瀧の中に入り、瀧の中に三葉の中に入った。瀧は記憶を呼び起こすかのように、三葉の記憶が瀧の中に流れる。そして、目覚める。瀧と三葉また入れ替わる。この時、三葉の顔つきは以前とは少し変わっているように私は感じた。まるで瀧の顔と三葉の顔を足して割ったかのように。

そして、おばあちゃんに言われる「三葉、お前。夢を見ておるな?」と。その後、父親である町長を説得しに行き、そこでまた言われる「三葉…?いや、お前は誰だ?」と。説得に失敗し、打ち拉がれつつ帰る途中で、四葉に「昨日も急に東京に行って…」と言われ、何かを察し、ご神体のある山の方を見て走り出す。御神体までの道すがら、3年前に三葉と出会い、組紐を受け取ったことを思い出す。

朝の飛騨はまた違った顔を見せる

朝の飛騨はまた違った顔を見せる

一方、ご神体にいる三葉が目覚めると、町が跡形もなく消え去っているのを目の当たりにする。そして、その丁度その時、どこからか瀧が呼ぶ声が聞こえてくる。3年間の時間の隔たりを挟んで、二人は互いを探し合う。やがて、日が落ち、かたわれ時(黄昏時)になる。その瞬間、組紐で結びつけられたように、二人は出会う。瀧は瀧の中に戻り、三葉は三葉の中に戻る。三葉は絞りだすかのように「瀧君がいる」と声を出す。

瀧が組紐を三葉に返し、お互いの名前を忘れないように手に名前を書こうとした瞬間、かたわれ時が終わり、二人はまた離れる。結びがふっと解けたかのように離れて、少しずつ互いを忘れて行く。三葉たち町民は助かり、互いに別々に成長してく。しかし、体の中に、ぼんやりと残った、誰かを探しているという思いが尾を引く。そして、大人になった二人はまた出会い、互いを思い出すかのように尋ねる。君の名前は、と。

宮川朝市

宮川朝市

この作品を通して私は、ふっと、街が生きているように感じた。無機質な新宿の街並みが、とても無機質には見えなくなっていた。まるで長時間露光した写真のように光をいれたり、思い切り背景やシーンにボカシをいれるところなど、今までのアニメーションでは見られないところが多くあった。アニメーションの背景は大抵ぼかすことはない。シーンでキャラを協調したいときはズームで人物を協調する。しかし、新海監督は、まるで実写映画のように、ガシガシとボカシを入れてキャラクターを協調させていた。また、時々シーンの合間合間に、新宿の町並みを入れることで感じる余韻が、前のシーンで見ていた感情をより深くさせている。間と間に入れている風景、その「隙き間」が作品をより味わい深いものにしている。
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これでしたね。

また、キャラクターの声も素晴らしいと思う。彼らの息遣い、息をはく音、吸う音がよりキャラクターの心情を引き出している。劇場の大音量のスピーカーから聴こえてくる、あの息遣いから、キャラクターの感情や心境が伝わってくるかのようだった。以前、何かの記事で細田守監督は声優らしい声優をあまり起用しないと読んだことがある。所謂声優は、全力疾走したときの息切れの音や、息遣いの音がうまく出せていない。演技の枠を離れておらず、作られた感じが強く残る。彼らは恐らく養成所でレッスンを受けてハッキリとした声を出すテクニックを学ぶのだろうが、それはあまりにも不自然な声を出す事になる。現実の人間にあのような声を出す人間なんていない。その点においては、やはり声優より、俳優なのだろう。

かなり乱暴に言って、最近の声優は感情が声に乗っていないと私は思う。出ているのは声の強弱だけで、全く感情が乗っていない。アニメを見ていると、キャラの表情ばかりに気を取られて、声の強弱だけでなんとなく感情が入っていると思ってしまうが、ドラマCDなどの声だけのものになると、いかに感情が入っていないかよくわかる。

神木さんと上白石さんは、感情を乗せて声を出せる人だと思う。声優と俳優の違いはそこにあると思う。個性的な声だけなら声優だろうし、実際大抵のアニメはそれを求めている。しかし、それでは繊細さが描けない。人は言葉のみで感情を表現するわけではないのだから。その息遣い、息をはく音、吸う音からも感情を感じる。

飛騨と言えば日本酒。冷たい外気で冷やされた日本酒がこれまた美味い

飛騨と言えば日本酒。冷たい外気で冷やされた日本酒がこれまた美味い

ジブリと新海誠の違いはまさにそこだろう。ジブリはキャラクターの身振りそぶりで感情を表現する、体の動作や表情で、感情の繊細さを表現する。しかし、それでは動かない静的な状態を描ききれない。人は絶えず動くわけではない。止まってじっとしているときも思考はめぐり、感情は動く。新海誠はその静的な心の描写を繊細に、そして詳細に描ききった。それが、ヒットに繋がっているのだと私は思う。日本人の無表情さ、動かなさ、静かさを見事に描いていると思う。静的な中に流れるキャラクターの感情を描ききったからこそ評価されていると思う。そういう点から、ジブリと新海誠は同じではない。

私は「君の名は。」を見たときに、ナチュラルだなと思った。キャラクターのリアクションや表情の変化が、他のアニメに比べて控えめだと思った。前作の秒速5センチメートルはキャラクターが無表情過ぎて、作品全体が暗く感じてしまったが、今作の「君の名は。」では、キャラクターの表情の豊かさが丁度いい塩梅になっていたと思う。

飛騨からの白川郷。神社にはひぐらしのなく頃にのキャラの絵馬が並ぶ

飛騨からの白川郷へ。飛騨は他にも下呂温泉もある。美味い食事と美味い酒、それに温泉と観光地と非の打ち所がない。ただ帰り道の名古屋には何も無い。

表情が豊かになるということは、それだけオーバーリアクションになる。例えば、ディズニーやユニバーサルのアニメ等では、やや大げさに反応することで、キャラクターの感情をより明確に表現している。一方で、新海誠は逆なのだ。キャラクターにはオーバーリアクションをあまりさせず、声や息遣いで感情を表現している。この情緒の変化を見事に描ききった。だからこそ世代を選ばず楽しめる作品になったのだろうと思う。

日本のみならず、海外でもヒットしているが、言葉はわからなくても、その息遣いで嬉しいか、悲しいかはわかるからだろう。この繊細で揺れ動く心を新海誠は描ききった。三葉が東京に行き、偶然瀧を見つけ「瀧君…瀧君。」と恐る恐る声をかける。このシーンの三葉の、あの歳の少女しかできないであろう、表情や心情を描けるのは、今、新海誠の他に存在しないと私は思う。あの甘酸っぱい表情は、少年時代をはるか昔に終えてしまった私には、あまりにも眩しすぎた。新海誠は、繊細を描ききる天才だと私は思う。