最近、

何かを書くのが本当に億劫だった。これは面白いのかとか、これに意味があるのかとか。しかし、よくよく考えれば、そんなことは気にする必要は全くなかったのだ。これは私のブログだし、私がサーバー代を払っている。私が何を書こうが私の好きにすれば良いし、誰かにつまらないと言われるのを恐れる心配も必要ないことだった。私が好む酒について永遠と書いても良いし、別におしゃれなことを書く必要もなかった。しかし、私は考え込んでしまった。今まで色々あったが、その殆どを「こんなのは書くこともないな」と思ってしまうようになった。しかし、最近になってこれはおかしいんじゃないかと思い直した。そして、何故私は必死に誰かを思わなければならない様になってしまったのか、その原因を考えてみることにした。

思い返すと、

私は他の誰かを気にし過ぎる子供だった。幼稚園から小学校に上がる際に私は他県に引っ越して、全く誰も知らない中で小学校生活が始まった。何も知らない環境で、誰も知らない中での小学校生活は本当に心にくるものがあった。誰も知らないという中で私がとった行動はとにかく目立たないということだった。いじめられるのは嫌だったし、喧嘩をしようものなら教師に怒られる。何故ここまで人のことを気にしていたのだろう。一つあげられるとしたら親から「先生のいうことを聞きなさい」と言われたからだろう。小学生の時は親と教師のいうことをきちんと聞いていた。しかし、言うこと聞いてもさほど価値がない。つまり意味がないし、結局のところ我慢しろという結論に行き着くのがほとんどだった。何故我慢すべきかは誰も教えようとはしなかった。中学生になり、とうとう教師という存在が、いい加減で無責任で糞のような存在だと自分の中で結論付けるに至った。

小学生の時はまだよかった、言う通りにしろと言われてその発言が間違っていたら教師が責任をきちんととっていた。中学高校生になってくると言う通りにしろといって、言う通りにして他の教師から怒られても「自分で考えなかったお前が悪い」という人間が増えてきた。そこで私は「ああ、教師とは糞か滓のどちらかか、あるいは両方なのだな」と思うようになった。しかし、根は真面目なので言われたことを自分で考えるようにした。

言われたことに対して一度自分で考えるようにした私は教師のことを疑いに疑いに疑っていた。教師を疑うついでに教科書も疑っていた。だって、本当にそれらが正しいという理由はどこにもないのだから。何故無批判的に信用できるのか、微分の演算の逆が積分ですと言われて何故信用できるのか。私には不思議でたまらなかった。結果的に勉強の進度はあまりにもおそかったが、今から見ればそれは必要な遠回りだったと思う。

疑うこと、

先日も上司に言われた。「お前さんが言っているそれは本当かい?」と。最近は技術調査で色々調べているのだが、教科書の知識をそのままスライドにして報告したら、このように言われたのだ。結果的に自分でもよく考えてみると言葉が悪いということに気がついて、訂正した意味合いでその後の発表をしてみたところえらくスムーズに話は進んだ。発表が終わると上司は私に「全てを疑って研究は始まるというスタンスを忘れるな」と言ってくれた。

思えば昔は私はそのような人間だった。ベクトルの内積がa・b = |a||b|cosθといきなり出てきて意味がわからんと図書室にこもってみたものの分からず、志田晶の本に至っては分度器的なのものと言ってくるわで本当に意味がわからなかった。冷静に考えれば幾何的に射影部分とわかるのだが、その当時は誰もそんなことは教えてはくれなかった。ちなみに教えてくれたのは駿台の石川という予習を一切せずにその場で問題を解いて見せる数学の講師だった。

疑うのは大切なことだが、疑ったものが正しいかどうかを判断するのは時間と肉体的なエネルギーがかかる。そのため大抵は無批判的に受け入れることが多い。大量の本を読んで本当にそうなのかを考察する。これが物理学やら数学なら数学的な証明をしてしまえばいいので話は早いが、実際の世の中はそうではない。どこかで「これは確かだとする」と線引きを決めないといけない。この線引きをきちんとしておくと「私は〜という理由でこう考えています」と言えるようになる。まとまりがなくなってしまったが、言いたいのは疑ったことを確かめる面倒臭さと向き合ってみるのもいいですよということだ。それは果てしなくスマートとはかけ離れたものだが。

そういえば今年の新潮文庫の夏の100冊に素晴らしい本が7年ぶりに再販されたのでamazonのリンクを貼っておく。私が悩んだときにいつも読んでいる本だ。察しがいい人は岡潔の本だと思うだろうが、その通りに岡潔の本だ。本は人生を変えてくれる。それでは、良い夏を。